映画『響 HIBIKI』レビュー

おちょぼ口

『坊ちゃん』の主人公の悪ガキぶりは正義も善悪もない、その気質的なものから生まれているように見える。気質的などうしようもなさは、両親からはロクなもんにならないと忌み嫌われるが女中のお清からは寵愛される。お清は主人公の中に反社会的な行動の中にひたむきなものを見抜いているように見える。両親を失った主人公もまた両親以上の自分を理解してくれる大きな存在としてお清を慕う。ところで映画の響に肩入れする観客は、暴力的で独善的であるにもかかわらず同様なひた向きさを見るように思う。暴力が肯定されないまでも胸が漉かれるれるのはそのためだ。もしそれを取り逃したらこのガキを放ったらかしていたらロクな大人にならないから教育的な制裁を加えなければならないとだけになる。響はあたかも『坊ちゃん』のような直情的な女子高生でなければならず、世間へは暴力で抗していかなければならない人物像として飛躍している。作者は飛躍し暴力性があたかも彼女の性向であるかのように脚色している。この脚色は「こんな女子高生像はありえない」としても妥当だし、それは漫画だからだ、映画だからだとしても妥当だ。例えばその資質的な成り行きで破滅の画が描かれているかと言うとそれも違うようだ。実際、町田康でさえ暴力をふるわれたら警察に訴えるのだから!だから「こんな人物像は在り得ない」と私たちは言ってしまう。そう言うとき、暴力を介して作者は理念的な人物像を作り上げられているか、あるいはそれを越えてしまっている。それは取りも直さず作者が頭の中でかく在るべきだと作り上げたものに過ぎないし、芥川の言葉を準えたとしても天才なども空想に過ぎないのだが、そうせざるを得ない作者の願望と要請があって、つまり暴力が作品の本質であるかのように私たちには見える。暴力は絶対的に否定されることのないように、道徳規範を与えかねない両親は隠されているのもそのた(紙面不足

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響 HIBIKIのポスター
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弐個 四

本棚に並べたDVD画像をSNSで自慢げにさらすような大人にはなりたくない。

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