映画『セールスマン』レビュー

第三の女

 新作を渇望しつつも、イランの気鋭監督アスガー・ファルハディの作品と対峙するには、相当の覚悟が要る。登場人物たちが期せず陥ることになる後戻りできない袋小路へと、観客までもが、凄まじい吸引力で引きずり込まれるからである。

 テヘランでの無謀な建設工事に巻き込まれ、地元の劇団員として活動もしている国語教師の夫と妻は、仲間の紹介してくれたアパートに渋々転居するが、彼らが夫婦役で出演する舞台「セールスマンの死」の初日の夜、先に帰宅した妻は、夫と思い込み開けた扉から侵入した何者かに襲われてしまう。

 この事件を境に、夫婦関係にも亀裂が生じる。事を荒立てたくない妻は、無理にでも前に進むべく、舞台に立ち続けることを望むが、公演の途中でパニックに陥る。妻が辱めを受けたことで、自身のプライドもズタズタに引き裂かれた夫は、伴侶を守れなかった後ろめたさから逃れるように、犯人捜しに躍起になる。いわゆる”仮面夫婦”ではなかったはずのふたりの足並みは一向に揃わず、知らず知らずのうちに相互に被ってきた何かが、徐々にはがれ落ちていく。

 彼らの運命を翻弄し、全篇にわたり異様な緊迫感を与えるのが、画面に一切登場しない”ふしだらな女”。夫婦が越してきたアパートの前の住人で、彼女が部屋に連れ込んでいた客の誰かが侵入者ではないかと、隣人らは怪しんでいる。『彼女が消えた浜辺』(09)では、中盤以降に姿を消すことで画面を支配するキーパーソンを演じたタラネ・アリドゥスティが、今回、見ず知らずの存在に苦しめられる人妻を演じているのも、単なる偶然ではないようにも思われる。目まぐるしく変化し続ける社会において、誰もが優位に立とうとする風潮に、ファルハディ監督は静かに異を唱え、”あんたはナンボのもんじゃい?”と鋭く問い掛けてくる。ある種の演技をも余儀なくされる自身を見透かされ、心の中を丸裸にされる、恐ろしい傑作である。

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セールスマンのポスター
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服部香穂里のプロフィール画像

服部香穂里

映画界の末端で、浮草のように漂うております……。

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