マッドマックス 怒りのデス・ロード

2015年06月20日公開
マッドマックス 怒りのデス・ロードのポスター
8.8

どんな映画

これほどまでに4DX上映と相性の良い作品はそうそう無い気がする。

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フリークレビュー
8

モヤモヤした

このレビューにはネタバレが含まれています。

 映画通の皆さんが大絶賛しているので、いけないと思いながらも期待マックスで臨んだせいか、すっきりしないモヤモヤした気分になってしまいました。確かに面白い場面はたくさんあるし、敵も人間味があってよかった。予告で白塗りのゾンビみたいな連中がわらわらと襲ってくるのを見て、こういう表現嫌だなと思っていたら、そんなことはなくちゃんと一人ひとり人格があって、洗脳状態ではあるんだけど、それなりの理屈で行動している人々で、安心した。

 マックスがトム・ハーディで影が薄いのかもしれない。今思い出そうとしても顔が思い出せない。マックスより片腕の女の方がずっと存在感があったし、マックスなんていなくても成立するような話だった。マックスが足りなくてモヤモヤしているのかもしれない。

 3D吹き替えで見て、どっちも苦手なので公開したら2D字幕で見返したい。全然退屈しなかったし眠くもならなかったので面白いことは面白いんはずなんだけどもっと突き抜けて欲しかった。それは贅沢というものなのだろうか。

(追記)
 2D字幕で見返した。ちょっとウトウトしてしまったのだが、やっぱり初見の印象は変わらなかった。1作目、2作目にあった本気で殺し合いをしているようなギラギラとした迫力がなかった。敵が派手な分、ふざけているようにしか見えなかった。

 マックスの影が薄いように感じていたのでマックスに注意して見るようにしたところ、けっこう出番や見せ場は多く、活躍していた。しかし、すんなり人助けするし、トラウマに苦しんでいるし、すっかりお人好しになってしまっていて、すごく違う感じがした。マックスは犬だけがパートナーで、でもその犬すら大事にしないような孤独さがよかったのに今回はそんな感じがなかった。

 本気を感じさせた登場人物は、敵のコスト計算しながら乳首をいじっているおじさんとバイクのおばあちゃん連中だった。

古泉 智浩
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マンガ家
9

「外」に出ろ。「内」を変えろ。

このレビューにはネタバレが含まれています。

シリーズ第1作はご存知の通り、極めてプリミティブ、だからこそ極めて鋭く仕上がった。まさにマッドマックス「以前」「以後」に分けられると言っていい。人類が破局を迎えた後の未来、というお題に、ある一定の既視感を与えた点で、第1作が映画史に残した意味は大きい。そして今作はその地平から、現代社会に生きるおれたちに強い問いを発する。

フュリオサ(C.セロン)はあの世界で救世主として語り継がれるだろう。でも彼女の転機はマックス(T.ハーディ)無くしては成らなかった。

人生を変えるためにフュリオサは「外」に出る。戦いの中で発揮するのは「内」で鍛えられた戦闘能力だ。生き残るだけで善戦と言える壮絶な「外」。想定外の分子・マックスと期せずして出会い、ただ局面を生き延びるために手を組むことが、人生を前に転がす。

戦いの末、係累たちとさらに「外」を目指そうとするフュリオサに、マックスは「引き返せ」と誘う。生存のため、資源のある方を選ぶ。何より逃げていても世界は変わらない。「内」を変えれば世界は変わるのだ。

マックスは本質を突き止め、フュリオサはそれを受け容れる。これがこの映画で最も大事な、おれたちへのポイントだ。「外」に出る。それには「内」で培った資質がモノを言う。「外」での出会い。それは賭けであり、チャンスである。「内」への挑戦は、想定外の仲間を得て「外」から仕掛けて初めて機能する。

空回り気味のニュークス(N.ホルト)がイイ。巻き込む勢い、巻き込まれる素直さ、おれたちに一番近いのは彼かもしれない。エグい造形と限界突破のアクションだけが注目されるが、本作の底を支えるのは、人生に挑もうとする全ての人々に共通する本質なのだ。安逸に見えるこの世を囲む常識がすでに「狂気」なのかもしれない。

「外」に出ろ。「内」を変えろ。
単なる娯楽として消費されることを拒む、強烈なメッセージが隠されている。

Daisuke O-oka
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VTRディレクター
9

時速240キロのコックピット

車を取り上げられた今回のマックスはただの「輸血袋」。しかし腐っても600馬力の荒馬(インターセプター)を乗りこなしてきた伝説の男、その血液は極上のハイオクと呼ばれる。
対してウォーボーイズは常に輸血を必要とする走り屋。半減した命を走ることで燃やし尽くす。向こう見ずな走り屋たちの箔は「燃費の悪さ」に比例する。

人間が車の権化と化したこの世界では、血(燃料)とハンドル(行き先)がすべて。ウォーボーイズは獲物を狩るため、銃の代わりにハンドルを手に車に乗り込み、その身体に走るためだけの血液を充填する。その時「走ること」は「生きること」と同義になる。アクセルをふむ足に命がみなぎる。

マックスはハイオク・ガソリン(輸血袋)。この世界において最強の燃料であり、ドラマを動かす力となる。

謀反を起こして緑の大地へひた走る女戦士フュリオサ、それを追う寿命間近のウォーボーイ。マックスはこのふたりの動力となる。マックスが与えた血液は、へたれウォーボーイに身の程を超えた走りをもたらし、絶望した女戦士を再び未来へと走らせる。

アメリカが銃ならばオーストラリアは車に病んでいる、と嘯くジョージ・ミラーが、またしても徹底的に車の大挙で攻めてきた。

さらにこの映画の編集テクニックの話を聞いて瞠目した。
ジョージ・ミラーは激しいアクションをすべて画面の中心で展開させ、観客が目を中心から動かすことなくすべてを把握できるよう設計したという。
そうか、ここはコックピット(運転席)だ。静止時に180度ある人間の視界は時速100キロで40度に狭まる。それなら時速240キロで爆走する120分のアクションドラマを乗りこなす客席の視界は、ひたすら画面の中央に集結し、微動だに出来ないはずだ。

時速240キロのコックピット。スピード狂の中毒性。
世代や性別を超えた興奮も、リピーターたちの熱狂も、これですべて説明がつく。

田中 啓一
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詩人だねぇ

『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のカラーレビュー

みんなのメモ

橋向 昭一

これほどまでに4DX上映と相性の良い作品はそうそう無い気がする。